竹藤の歴史

 ★初代~開業

永禄11年(1569年) 

 ・初代 鈴木五郎右衛門誕生(戦国時代)

天正18年(1582年)

 ・会津の黒川城に入った蒲生氏郷は、居城の築城と城下町の建設を行った。この町割りにより、それまで武士と商人、職人が混在して居住していたものを分割した。


文禄2年(1593年)

 ・会津の黒川城に入った蒲生氏郷は、居城の築城と城下町の建設を行った。この町割りにより、それまで武士と商人、職人が混在して居住していたものを分割する。堀と土塁の内側を郭内して、武家屋敷とし、その外側の郭外に町屋が置かれた。


寛永元年(1624年)

 ・2代 鈴木長吉 誕生

この頃、初代が店を開業したと思われる。(寛永元年は、町屋が置かれてから31年後)

文化4年(1807年)

 ・当時の竹問屋株人別帳。会津藩の商人司(梁田家)から手渡された営業許可書。竹問屋数軒の名前が残されている。

 ・当時は、車もないので牛に荷車を引かせて竹を運んでいた。(この荷車が現在も残っている。)

 現在の店の柱には、牛を繋いでいた後が残っている。

 長い竹は、割って丸めて運んでいたと言われている。


 ・会津は、酒処であったため、樽を縛る竹(箍(たが))は、竹問屋の大きな収入源にもなっていた

 ・江戸時代、針金、金網などもほとんどなく貴重品。竹は、何でも使える貴重品として、重宝されていた。

 ・他にも樽、桶は、家庭は、もちろん火消しなど、多くの需要があった

 ★8代目鈴木藤助の記録

文政3年(1820年)

 ・6代目 鈴木重貴 没 (享年71歳)

 ・働き者で、番頭としても才能を発揮していた、鈴木勝貞(のちの8代目藤助、当時30歳)が7代目藤右衛門の娘、エツ(1805年生)の婿養子になる。(6代目が亡くなった7か月後のことだった)

(勝貞 寛政2年1790年生~明治8年1875年)

 

 この時代、将来商人として立って行くものは、11~12歳から商家の奉公に入った。

 主人の家族と生活をともにして商売のことよりも主人一家の召使いのように雑用をさせられた。立派な町屋の子供も、他家に丁稚奉公に出され、「他人の飯を食う」ことが経験のひとつとされていた。

 15~16歳になると元服し、家に帰り家業を営むものと、主人の家に残って主家の業を営むものに別れた。

 30歳前後になり主人に認められたものは、番頭に昇格して、主人の代理として働いた。番頭としてのなみなみならぬ努力が認められると、別家の待遇をうけて、「暖簾分け」してもらえることもあった

 

 平町人の生活は、きわめて質素であった。百姓と同じように絹、紬は禁止され、木綿のみ、米もほとんど、食べられなかった。竹藤は、竹問屋として大きな問屋であった為、豪商とまでは、いかないが当時としては、裕福だった。


文政9年(1826年)

 ・老町(おとなまちまち)の火事により、大和町に移転。


文政13年(1830年)

 ・7代目 鈴木藤右衛門 没 (享年50歳)

 ・婿養子の勝貞が8代目となり、鈴木藤助に改名する。


天保5年(1835年)

 ・再び老町の火事により、現在の一之町に移動。横三日町の家屋敷も売却し85両で買った。(竹問屋で成功を収めてきた婿養子の藤助(勝貞)は、武家屋敷に一番近く、 繁華街である一之町に 夢と希望を抱き、土地、家を購入し、移り住んだ。)

 

・引っ越して来たときに、既に文政6年(1823年)建築の現在も残る座敷蔵があった。


 一之町角に札の辻があり、会津五街道交通と商業の中心地として、両角に商人司簗田家、検断倉田家、馬場通りには検断坂内家を配し問屋豪商が一之町通りに軒を連ねていた。一之町には大町口、馬場口、甲賀町口の3つの郭門があり、武士町人が行き交う城下一番の繁華街であった。

 氏郷公が郷里日野から近江商人を招き「楽市楽座」(楽売楽買の自由市場)を興したのが一之町であり、会津商人はここに店を張るのが夢であった。


天保12年(1841年)

 ・一之町に引っ越した5年後も、火事が起こる。蔵は、屋根のみの被害で済んだが、主屋と店舗は、新しく立て替え、同じ年の7月建前をした。これが現在に残る建物になる。築177年 会津最古の商業建築と言われている。


青の印の位置が竹藤。一之町3つの郭門の中心に位置する。黒は、江戸時代。赤は、現在の地図。

  県立博物館に一之町の模型があり、そこに竹藤があります。町屋の平屋建て、2階建てどちらも高さが決められていてたそうです。2階の簾は殿様を見下ろすことがないようにつけなくては、いけなかったようです。

  この模型を作るときに、専門家の方が寸法を計りに来ました。その際、父が薬屋の看板が蔵あったことを話したので、薬屋と書かれていますが、過去帳によると一之町に来る前から、竹問屋でした。

 ・一之町に移り住んだ8代目藤助は、積極的に藩の手助けなどを行う。

 お城で子供が産まれると、竹竿他、お祝いを持っていった

 その当時、大川などの川の氾濫が多く、藩からの知らせがあると、その度に籠に石を詰め、川の水をせき止めるなど、すすんで手伝っていた。


嘉永5年(1852年)

 ・8代目鈴木藤助が竹問屋頭となる

 ・のちに9代目になる長男栄吉(当時22歳)は、藩からの要請で当時、人手が足りなかった慶山焼に奉公に行き、瓦、瀬戸がたを仰せ付けられた。


安政4年(1857年)

 ・三女、松(天保3年1832年生)、分家して隣に土地を買い与えた(のちの鈴木書店、現在の茶房すずき)


安政6年(1859年)

 ・4女ふじ、(1831年生)当時奉公に来ていた、平出富蔵の嫁になり、平出家に嫁いだ。

(現在も日新町の満田屋斜め向かいに残る、のちの平出竹問屋)


文久2年(1862年)

 ・天明5年1785年建築の蔵を竹の貯蔵蔵を今の場所に移築。現在も残っている。


 ★藤助の竹問屋頭時代

 ・桶屋が直接竹を仕入れるようになったので、藤助は、藩の桶役(桶専門の役職の係)に、「桶屋が直接、竹を仕入れるのをやめさせてほしい。竹は、竹問屋を通して買う決まりをつくってほしい」

とお願に行き、他にも

竹の仕入値が上がると

「竹の値上がりを認めてほしい、そのうち仕入値が下がれば、すぐに値下げをしますので」

などと、手紙を書いて藩に申請していた。


 【宝歴期あたり(1751年頃~)から、不正な新商人が出てきた。(安政期1860年頃~)その傾向が著しくなり、(一)問屋を経由しないで直売しないこと。(二)新しく商売するものは、必ず問屋に届け出をすること。など、会津藩は、問屋支配対策にでている。】


 ・藩から竹や旗竿の注文も多くあり、お城に竹を届けていた

 ・問屋頭として、お目見えが認められていた

 ・竹商売の方法、新商売の方法なども取り入れていたと記録されている

 ・慶応2年には、町頭にもなり、そこでもお目見えが認められた

 【町頭は、町民の老役として、町民の手本になること。町民の商売を監視し、高値商売をするものに注意をすることなどが決められている】

 ・藩に幾度となく寄付金、お祝いを渡していて、そのお礼にお金や米俵をもらったことなど、細かく記録に残っている。

 

 ・江戸末期、勢力のある会津藩に希望を抱き、次々と他の地方の武士がやってくる。そのことも藤助は、記録していた。

 この武士達には、戊辰戦争が始まると故郷に帰っていったとみられる。

その後、戊辰戦争がおこる


★戊辰戦争(会津戦争)

慶応4年/明治元年(1868年)

 ・薩摩・長州・土佐を中心とした新政府軍と徳川率いる旧幕府軍との戦い。白虎隊の悲劇でも知られる、16ヶ月に渡る内戦がおきる。

 町家にも新政府軍が入り、食料など盗みに入り、荒らされていた。多くの町民が農家などに避難していた。

 ・旧一之町に、他にも記録が残っているふたつの老舗がある。

 鈴木屋利兵衛は、新政府軍の屯所となったと、言われている。

 植木屋商店にも、土佐藩の部隊が根城にしており、落書き(県立博物館に寄贈)や家の柱の随所に刀傷が近年まで残っていた

 どちらも戊辰戦争当時は、疎開、避難していた。

 ・町屋で広い敷地がある場所は、ほとんどが新政府軍が侵入していたと言われている。

 

 ・昭和初期頃、竹藤の竹の貯蔵蔵の土間の土の中から、馬の蹄がいくつも出てきた。

竹藤では、馬を飼っていた記録がないことから、新政府軍が竹藤にも進入して、蔵を利用していたことが考えられている。


 ・そんな中、藤助らは、戦争中も一之町に残り、戦って会津に戻ってきた武士達に炊き出しをして、握り飯などを配っていた記録がある。(この事は、戦後その当時の武士が「あの時の握り飯が美味しかった」と孫に言い伝えられていたことから、店に訪れたお客様から聞いたという。)

 

 ・戦争中、かつて一之町に荷車で野菜を売りに来ていた、神指町の顔馴染みの農家に仏壇を預かってもらっていた。女、子供もその農家に非難し、藤助らも新政府軍の根城になってからは、非難したと思われる。その仏壇は、運んだとき一部破損したが、そのままの形で今も残っている

 

★戊辰戦争終戦後

明治2年(1869年)

 ・竹藤は、幸い焼失することもなく残った。

 【戦後の若松は戦火によって荒れ果て治安は乱れていた。戦死者を葬ることもできず、武家屋敷の大半と町家の3分の1は焼失。避難した町人は帰れない者も多く、財産や商品の強奪もあり、贋金にせがね・盗賊がはびこるなど、町民は不安におびえていた。

 政府は治安を回復させ、領民の生活を安定させるため若松に「民生局」を置き、戦死者を長命寺と阿弥陀寺には葬らせ、戦災を受けた貧困者には食料と生活資金を与えている。また、御蔵米を安く払い下げたり、住宅再建のため、旧藩の材木や材木手当金を与えている。翌年この民生局を廃止し、若松県を置いた。】

 ・強奪なども相次ぎ、町家も荒れていた頃8代目の長男、鈴木勝家(栄吉)(1828年生~1874年)が9代目となる。

 

 ・平出富蔵の嫁になった8代目の4女ふじの家、店も戊辰戦後に焼失した。酒屋後に、店を建て、竹藤の竹などもわけ、竹問屋を始めた。この店を出すときに支援をした。こうして、平出家は、今も残る平出竹問屋を始めたと言われている。


明治7年(1874年)

 ・9代目  鈴木勝家(栄吉) 没 (享年46歳)

 ・勝家の息子、勝富21歳が10代目となり、藤助に改名する。

  

明治8年(1875年)

 ・8代目 鈴木藤助 没 (享年86歳)


 明治初期のいしこ火事で、二之町にも大きな被害があり、竹藤の蔵の屋根と主屋の一部に燃え移った、それによって、主屋の一部を壊し、天保12年当時の店、主屋に増築したと言い伝えられている


明治後期(1905年頃)

 ・使用人であった働き者のの兵四郎(1862年生まれ)を婿養子にして、11代目になる。

 

10代目の長女ひさ(1874年生)を妻にして働いていたがのちに妻と子供を連れ、材木町に分家。10代目の藤助が11代目の兵四郎に土地を買い与え、材木町で、竹問屋を開業した。


大正12年(1923年)

 ・10代の藤助(勝富)の長男、寅吉が12代目藤助となったが33歳で亡くなる。

(12代目 鈴木藤助(寅吉)(明治23年1890年生~1923年 亡命33歳))

 ・当時、12歳だった息子の栄一が13代となる

13代目 鈴木栄一(明治44年1911年~1970年)

 ・竹問屋仲間が竹を倉庫から運ぶなど、番頭は、雇っていたが子供だからと甘くみられ、他の竹問屋に蔵の竹を次々持っていかれるなど、厳しい状況だった


昭和14年~20年(1939年~1945年)

 ・第二次世界大戦

 ・病弱だった栄一は戦地には、行かなかった。

 ・この時代、七日町にあった仏像、寺の鐘、一之町にあったと言われている街路灯、少しでも金属が使われているものは、ほとんどが鉄砲玉にするために壊された。


★14代目 現代

昭和27年頃(1952年頃)

 ・戦後は、奉公人、番頭も雇うことがなくなり、14代目のとなる英夫は、子供の頃から竹問屋を手伝った

鈴木英夫(昭和12年1937年生~現在81歳)


 ・13代目の栄一は、保護司、民生員、区長、学校の役員、子供会、老人会などの役員を掛け持っていて、人から慕われていたが、店は、息子の英夫に任せる事が多かった。竹運びは、高校生から、自転車で長い竹や物干し竿なども配達していた

 ・当時は、鯉のぼりの竹(長いもので11メートル位)、アンテナの竹、田植えの線引きの竹、手竹物干し竿、ビニールハウスの竹など、その頃までは、少なからず竹の需要があった。

昭和45年(1970年)

 ・13代目の栄一が59歳で亡くなる。

当時33歳だった英夫は、一人での竹問屋の経営は、困難と感じる。

また、時代共に、酒屋で使う樽に箍が使われなくなり、樽屋もなくなり、竹の需要がなくなったた為、竹問屋としてやっていけなくなった。そのため、取引のあった職人から竹製品を仕入れ、商売を始める。


昭和47年(1972年)

 ・当時結成された、會津復古会に入り、古い店を生かし、竹製品、土産物を販売。

 ・1店1品の看板商品を進められ、竹割りの技術を活かし、歴史に残る会津唐人凧を復活させた。

 ・その当時の旅行ブームと重なったこともあり、雑誌、テレビ等のメディアから多くの取材を受ける店となる。